堆肥作り体験を通して、記憶の底からひゅるりと立ち上ってきた教えがあった。それはクレニオセイクラルのトレーニングの授業中でだったか、Thick Nhat Hanh(テク・ナット・ハン)師の著書だったか、記憶がいまいち定かではないのだが、 固定された物事の見方を変えるという話の中で、「バラの花の姿に死を見てゴミにバラの花を見る」というような教えだったと思う。普段私たちが愛でている花は、植物の成長段階でいうと、終焉に近く、死の直前だというと、そして枯れて朽ち果てた植物は「ゴミ」と化すために捨てられて顧みられない。「ゴミ」を有り難がったり、鑑賞する人はいないだろう。しかし、実は人々に疎まれる「ゴミ」こそ、将来の「花」の姿なのだーという要旨だった。
台所から出る生ゴミを普通ゴミに出さないことに決めてから半年あまり、生ゴミ処理の方策は頭のイタイ問題だった。ボウルをお皿で蓋できるうちは良いが、数日も経つとボウルは果物や野菜屑でみるみるうちにあふれ、通勤時間の山手線に乗り込もうとする乗客たちの背中を後押しする駅員さんのように、料理をする度にお皿で乗客たち(生ゴミ)をぐいぐいとボウルに押し付ける羽目となる。ボウルは列車ではないのできちんとドアが閉まらなくても乗客の安全には関係ないのをいいことに、そのうちにお皿は蓋というよりも、夏の富士山にかぶる雪山の帽子のようになってくる。ここまでボウルから溢れかかると、私か相棒かが乗客を土に埋めなくてはならない。冬の寒い中、どちらがシャベルで土を掘って庭に埋めに行くか、貧乏くじを誰が引くのかという水面下の駆け引きのようなものがあった気がする。そして、冬の間は私の恐れるゴキブリの出現の心配はないものの、暖かくなって来たらこんな通勤生活、というか生ゴミ処理生活は続けられないという危惧が心の片端をかすめる。
今日は古武道の一つ、剣術の体験教室に行ってきました。今まで武術とはまるで縁が無かったのですが、イギリスからワークショップを教えに来日した先生が剣術を体験したいとのことで、付き合いがてらに行ったのです。最初、彼女から「殺陣を体験したい」と聞いた時には驚いたのですが、イギリスでも2年ほど剣術をたしなんでいたとのこと(ただのKill Billファンではなかったのですね)。彼女が参加を予定していた英語通訳付きの殺陣体験は、すでに定員に達していたとのことなので、急遽前日に探した剣術教室に一緒に体験をしに行くことになりました。
変化に直面すると、人は恐れや抵抗を感じます。変化が大きければ大きいほど、恐れや抵抗も大きいものとなります。
誰でも、未知のものは恐ろしいという思いを抱えているでしょう。自分が変わりたくない理屈をいろいろと付けて変化に抵抗するのは、エゴがその死を恐れているのです。しかし、恐れにふたをしても、その場しのぎにしか解決することはできません。
恐れから逃げ切れなくなった時は、恐れに立ち向かう準備が自分に整ったということなのでしょう。思い切って恐れの中に入り込み、恐れを全身で感じきると、あんなに向き合うことを恐れていた恐れは、砂糖が水に溶けるように、ハートの中で魂の放つ光に溶けていくかもしれません。その時、私たちも自分に課していた足かせから一つ解き放たれて自由になるのです。